山囃子の由来


 東区の有志より「東区祇園囃子について」という資料を提供して頂いたので紹介したいと思う。
山囃子の由来の貴重な資料であり、曲名の漢字表記の違いなど見比べてもらえればおもしろいと思う。
多少の省略、簡略をさせて頂いたが、資料を提供して頂いた有志に深く感謝します。


2002北九州博覧会遠征

 これは東の囃子方に伝わる話によって書いたものである。
西区、浜区に伝わる話とはくい違いがあるはずだが、それについてはここでは考えない。
また口伝なので根拠は記憶でしかない。「正しい」「間違っている」と断定的に書いてあってもそれは根拠が記憶なので、それが現実に真実である保証はできない。ただし、現在の自分の記憶に基づいた真実であることを保証する。

 ・祇園囃子(ぎおんばやし)

当初からあった囃子の一つで、囃子を習う際の基礎とされる。
「祇園囃子」という名前からどこかの祇園祭から習ってきたものと思われがちだが、当初からあった囃子は他所の祭りからは習っておらず、主に遠方の舞台芸能等の祭り以外のところから習ったという。
ちなみに当初からあった囃子とは「祇園囃子」「道囃子」「松囃子」「襖開」「寅市」「洒」である。

 ・襖開(つまびらき)

襖をゆっくり開く様を意味した名前であり、そのためこの曲はゆっくり囃す曲であるといわれている。
実際に舞台芸能等で襖を開くときに囃されていた曲なのかは不明。なぜ「ふすま」を「つま」と読むのかも不明。
なお襖を開くときに手の爪先で持ってそっと開くという事で漢字を「爪開」とする説もある。この字は「爪先」の「つま」と読むのでもっともらしいが、こちらのほうが誤りであるといわれる。

 ・道囃子(みつばやし)

道に囃子と書いて「みつばやし」と読み、みちゆきで囃す事から「道囃子」という。
なぜ「みち」ではなく「みつ」と読むのかは不明。みちゆきでする囃子という事で「道する囃子」から変化したものであり、「道ス囃子」と書いて「みつはやし」と発音するのが正しいという説もある。
最初に二回繰り返す節が最後にもう一回あるので、続けて囃すときは同じ節を三回繰り返す事から漢字は「三ツ囃子」と書くという説もあるが、こちらのほうは誤りらしい。

 ・洒(さらし)

舞台等で全てが終わって「幕を洒う(あらう)」ときに演奏された曲が元であり、その呼び名の「さらし」に「洒う」の字を当て字として「さらし」と読むことにした。もともと「さらし」に漢字はなかったという。
「幕を洒う」という行為は実際に幕を洗濯する事ではなく、「すべてをきれいに終わらせる」ことを意味する言葉である。「千秋楽を迎える」が意味としては近いらしい。
この由来を信じれば「洒」はもともと何かの舞台芸能の囃子だった事になるが、それが何処の何なのかは不明であり、もともとの「さらし」という呼び名の由来も不明である。
ちなみに「洒」には歌詞があったらしいという話を極々一部で聞くが「舞台等で幕を洒うときに囃された曲」という由来から考えれば有り得ない話ではない。しかしそんなものは無いという者も多いため定かでない。もし原曲が見つかるなら真偽が判明するが、恐らく無理であろう。

 ・松囃子(まつばやし)

「松囃子」と呼ばれる曲は各地にあり、それらのどこかから習ってきたものらしいが詳しくは不明。
「囃子」の漢字は「噺子(はなし)」と書く説もあるが、これは「松囃子」と呼ばれる囃子があちこちにあるため由来探しをされないように独立させるためにわざと変えたという事が理由とされるので、この説をとっても、もともとは「囃子」と書いていたことになる。
この囃子は浜の囃子と言われ東は囃さない。囃していると浜から文句を言われるため東は囃さないと言われているが、実際の話はこうであるらしい。
松囃子は浜の得意な囃子で、また派手な曲であるという理由からも東はあまり囃さない曲としていた。
若い者は松囃子を囃したがったが「囃したがる者は東の囃子をわかっていない」という理由でそういう者に東の松囃子をなかなか教えなかった。そこで若い者が浜の曲を聞いて覚えて勝手に囃したので、それは浜から当然文句が来たし内部でも問題になった。
他所のを覚えて囃されるより東の松囃子をされたほうがまし、ということで年寄りが仕方なく教え直そうとしたが、他所のを覚えていたため変な風に混同し、他所から聞いても明らかにおかしいので文句がつき、教え直す事も止め「松囃子」を囃す事も全く無くなった。
ちゃんとした東の松囃子なら他所から文句を言われる筋合いが無いのでたまにはやってもいいだろう、というのが本当のところだが「東の松囃子」「たまにはやってもいい」という事がしっかり守られるのでなければこれは出来ない。

 ・東府屋(とうふや)

この曲は「東府屋○○」という人物に習ったもので、曲名についてはこちらに任せたという。そのとき「私が教えたということは伝えなくて良い(伝えてはいけない)ので、私の名前を入れた名前にはしないように」というような旨のことを言ったが、誰もなかなか曲名付けることが出来ず、とりあえずということで呼び名にしていた「東府屋」がそのまま定着してしまったという。
この由来を信じれば習った時点で曲名が無かったと考えられ、浜崎祇園のために作曲されたものではないかと憶測できるが、真相はわからない。

 ・法螺ノ梅(ほらのんめ)

「法螺」から法螺貝を連想し、もともと法螺貝で吹かれていた曲と考える者もいるが、これは口先とか嘘の「法螺」の事で「梅」は梅の木の事ではなく「梅○○」(漢字三文字であるらしい)という人名の名前をとっての「梅」である。ホラ吹きの梅という人物が実在したかは定かではないが、その人物についての「法螺ノ梅」という演目の舞台芸能があり、その中から取ってきた囃子であるらしい。
その詳しい内容については「囃子を貰う際にその演目自体廃止してもらった」という話もあるので、恐らく調べてもわからないだろう。

 ・寅市(とらいち)

寅年の「とら」に市場の「いち」と書いて「寅市」と読む。
「寅市」という名前も世の中に存在するが、作者名に由来するものではないといわれている。場所の名前であるらしいが、詳しくは不明。

 ・団車(だんじり)[二上リ寅市](にあがりとらいち)

寅市とこの曲には類似する部分があるので無関係ではなさそうだが詳しい関係は不明。何をどう比較して「二上リ」なのかも不明。
「寅市」は最初からあった囃子といわれているが、「二上リ寅市」も同じくあったのかは不明。「二上リ」のほうが浜崎の囃子に合うように改変されたもので「二上リ」を作ったときに「寅市」は止めてもよかったのだが、やめられなかったので残っているという説もある。
この曲は「寅市」と混同しやすい部分があり、未熟な囃子方が間違える事もあって東ではどちらかを主に囃す曲とし、もう一方をあまり囃さない曲に決めようという話になった。
話し合いの結果「寅市」には「祇園囃子」と混同しやすい部分もある、浜は「寅市」のほうを主に囃しているようだ、等の理由から東は「二上リ寅市」をとることになった。
その際名前がそのままでは「寅市」が基本で「二上リ寅市」が亜流である印象があり、区別をつける腕のない者が「寅市」を習いたがって、その結果囃子が乱れる事も心配されたため、新しく独立した名前を付けようということになった。命名は大江の笛方の一人に一任され、大阪あたりに団車祭りという良い祭りがあると聞いたのでそこからとって「団車」と名づけようと提案された。
これは発音した場合「段櫃」と混同しやすいという理由で反対者もあったが、全員で間違えないように気をつけるということで「団車」とすることに決まった。

 ・伊万里甚太夫(いまりじんだゆう)

「伊万里」は地名とは関係ない、「甚太夫」は作曲者の名前ではないといわれているが、詳しくは不明。「伊万里」と頭につける必要はないというものもいた。
この曲は西の囃子方の一人が他所の祭りを見物に言った際、これは西の囃子に合うと感じてすぐに習い持ち帰った曲であるという。その後、東と浜もその地区に出向き曲を習い自分の区の囃子に合うように改変した。
しかし東区では自分の区の囃子にはならなかったという判断で囃す事はない。浜があまり「伊万里甚太夫」を囃さないのも同様の理由らしい。また「他所の祭りから囃子を習って良いのか?」という問題で嫌う者もいたらしい。

 ・段櫃(だんひち)

階段の「だん」にお櫃の「ひつ」と書いて「だんひち」と読むといわれている。
なぜ「ひつ」ではなく「ひち」なのかは不明。お櫃のことを「おひち」と呼ぶ地方があるなら、そこから習った曲ではないかとも憶測できるが、そういう地方があるのかどうかは不明。

 ・獅子(しし)

獅子舞の獅子が蝶を追ってじゃれるようにゆっくりと遊んでいる様を表現した曲といわれている。
この囃子は近辺から習ったものらしく、習った先の人が浜崎祇園を見物に来たときに「獅子を囃してくれ」とせがんでいたという話がある。この囃子の由来の「獅子」とは獅子舞の「獅子」のことであるといわれ、あわせて考えれば浜崎周辺に蝶を追って獅子舞が舞うような祭り、または芸能があればそこから習ってきた囃子と特定出来るかもしれない。

 ・猩々(しょうじょう)

西が「伊万里甚太夫」を新しく取り入れたため、東も何か新しく囃子を始めようという話が大江の笛方のA氏から出され、それならどこかから良い囃子を見つけて習って来いという話になった。その後A氏が新しい囃子を教えるということで囃子方を集めたが「どこに習いに行ったらよいか分からないので自分で曲を作った」と言うので、そんな囃子ができるか、と東の囃子方内でもめたという。
他所から習った囃子であればその曲について三区は兄弟弟子ということになるが、内町の者が作った囃子ならば師匠と弟子になってしまう。こういうことをするのは良くないという理由でまず反対された。
そしてその曲の出来もあまり良くなく「東には速い曲がないので速くした」「指を難しくしてみた」「長くは作れなかったので短くなった」等、東の囃子方として受け入れ難い部分が多くあったため、その理由でも反対された。
曲名は、このとき皆の前で囃して「まだ曲名ば決めとらんばってん、何がよかや」と言うと、他の者が反対する意味で「何か、こん曲はヒョコヒョコして猿回しの猿のごたる」とけなしたところ、それを勘違いして後日「調べてみたら猿の事ば昔猩々て言いよったてやっけん」という理由で「猩々」という名前にしてしまったという。
その後、結局A氏が周囲を押し切り「猩々」を座り山でのみ少し囃してみようという事になったが、A氏が強引に囃す事が多く、彼の居る座り山では必ずといっていいほど囃していたという。しかし上記のような理由から、また作者が自分で作ったことをしきりに宣伝したことがさらに周囲の反感をかったため、彼の死後まったく囃されなくなった。
しかし死後しばらくたって「いろいろあったばってん、せっかく始めたとやっけん」という者もいたので「東の囃子に合うように手を加えてたまには囃してもいいじゃないか」という話になった。それで東の囃子方で話し合いながら改変したが、結局全員が納得する東の囃子にならなかった。
これは後半がうまく出来ていないという判断だが、あまり協力的でなかった囃子方がいたのも原因である。また最後まで一貫して「猩々」を囃すことに反対した者もおり、現在も東で囃す事はない。
この曲の笛は当然A氏が作ったものであるが、太鼓の担当者に作る事を断られたため、太鼓についてもA氏が作ったという。三味線については三味線の担当者が作ったが、いくらか腕の劣る者にしか頼めなかったため、曲の出来としての評判も悪かった。
浜は「東の作った囃子はせん」ということで最初から取り入れなかったという。
西ではA氏の子孫が西区に移り住んで囃子方になったためか、西の囃子に合うという判断か、現在囃されている。なお元祖であるはずの東での「猩々」は改変されたため、西の「猩々」のほうが原曲に近いという奇妙なことになっている。

 ※当初からあった囃子について

当初からあった囃子は「祇園囃子」「道囃子」「松囃子」「襖開」「寅市」「洒」(二上リも?)といわれている。これは遠方の祭り以外の舞台芸能等の囃子から持ってきたという。
このとき三区はお互いに上下関係を作らないために、それぞれがそこに習いに出向いてたという話があるが「伊万里甚太夫」のとき確かにそうしている、ということからの憶測かもしれない。
また遠方の祭り以外からわざわざ習ったのは、祭り同士の上下関係を作らないためでもあり、由来をわかりにくくする狙いもあったようだ。さらに習うときにその囃子を以後は囃さないようにする約束も必ずしていた、ともいわれる。その事でかなりのお金を積んだ囃子もあったらしいというが、それがどれかは定かではない。
「法螺ノ梅」の場合は、その演目自体の人気がなかったので囃子を譲る事を快諾され、頼む必要もなく演目自体すっぱりやめてもらえた、という話もある。
当初からあった囃子を習った「遠方」というのは関西らしいと言うものもいたし、関東まで行ったらしいと言うものもいた。囃子によって習った場所が違う可能性もあるので、どちらが正しいか両方正しいか、実際のところ不明。ただし「少なくとも九州内ではない」ということは確からしい。


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